深呼吸図書館

悩めるあなたのための1冊アドバイザー“なついちご”が、今のあなたの気分にぴったりの本紹介します。

ブレスレット作った

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昨日、夜なべして作ったブレスレット。

結構力作!

自分では、かなり満足の出来映え!

 

友達にプレゼントであげるときに趣味で作ってるだけだったけど、石が貯まってきたので作って売ろうかな。と思っている。

 

メインのラベンダーアメジストが、惚れ惚れするほどきれい。

慈愛。という言葉が浮かぶ。

 

限りなく優しく、

限りなく気高い、

透明なラベンダーアメジスト

 

誰かのお守りになるといいな。

 


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雨に濡れるアガパンサス

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あまりに、きれいに撮れたので、自慢がてらのせてみる。

一切加工してません!

えっへん( ̄^ ̄)!

 

 

アガパンサス。という花。

アスパラガス、じゃないよ😝

 

妖精がいるだろ!ってくらいに、

雨に濡れて美しく咲いていた。

なんてなんて美しいんだろう!

この色!

この雫!

生きてる~!って弾ける感じ!


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今週も、お疲れ様❗️


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地球を守るヒーロー!

先週土曜の仕事帰り、「種を守る会」の総会に行ってきた。職場からなんと、歩いて10分の場所だった!

 

雰囲気はたぶん、株主総会みたいな感じ。

前年度の収支報告と、今年度の予算配分。

前年度の活動報告と、今年度の活動予定。

議題についての決議。

 

でもね。

そのあとがやっぱり、熱かった!

 

生の山田先生も拝見してしまった!

最新の種を取り巻く情報を伝えてくださっていた。

 

農家の方、農業関係者、役所の方も全国からお見えになっているようだった。

埼玉、栃木、石川、神奈川、ほかにも本当に遠くからみなさん来られていた。

 

全国に広がる、種子条例を都道府県単位で作るという活動。

まだ作られていない県でも、今作るべく奮闘中です!という報告もされていた。

 

たぶん、200名近い方が来られていたのではないか。用意された席はびっしりと満席だった。

 

みなさん、熱い想いで、まっすぐに日本の食の未来を思って行動されている方々。

一人一人とお話することはなかったけど、質疑応答やトークディスカッションなどを聞いていて、本当に胸が熱くなった。

 

運営の方々の、真摯な姿勢にも頭が下がる。

一円単位までしっかりと記載された収支報告書。たぶんみなさん、ほぼ無給に近い状態で、使命感で動かれているのではないかと推察する。感謝しかない。

 

長野や北海道で、種を守る会を主催し、種子条例を作るために先導された方のお話も聞かせていただいた。

 

よくマンガでもアニメでも、「地球を守るヒーロー」というお話があるけど、本当の意味での「地球を守るヒーローたち」の姿を見た気持ちになった。

 

本当のヒーローは、地味だ。

世間で騒がれたりもしない。

だけど、たんたんと行動している。

みんなの未来を守るために。

地球の未来を守るために。

 

種を守ることは、生態系を 守ること。

人間を守ること。そして、地球を守ることにつながる。

だからそれを守るために戦う彼らこそ、真の意味での地球を守るヒーローたちだ!

 

ひとつの企業の儲けのために、誰かずる賢い一部の人間のために、独占していいものではない。

 

だって、地球も種も人間も、神様が作ったもの。それらは等しく、みんなのものなはず。

 

 

韓国、インドネシアではすでに、自家採取が禁止され、自国の農業が瀕死の状態になってきているそうだ。

自家採取とは、自然にできる種を自分でとって、管理し、次の年も使うこと。

 

それは、当たり前の権利だ。

 

なのに、それを禁止しようとする人びとは、何をしたいのか。

種の権利を独占して、種を売りたい。

永遠に、必ず売れる。

なぜなら人は食べなきなきゃ生きていけない。

 

種を抑えることは、食料を根本から抑えること。

人間を管理するのにもっとも効果的なやり方。

 

彼らは、ニューワールドオーダーという、世界統一政府をつくるため、本気を出して日本を攻めに来ている。

これは、陰謀論ではなく、政治の話。

事実として、現在進行形で実際に起こっていることの話。

信じられない人は、自分で調べたらいい。

 

 

日本もこのままなにも手を打たなければ、間違いなく、完全に食べ物を抑えられた奴隷になる。

 

現政府は、それを推進し、国民を彼らに売り飛ばしたのだから。

 

声をあげて、戦わなきゃいけないときもある。

わたしも引き続き応援したいと思います。

 


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捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ。

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5年前の今日、わたしはスウェーデンのダーラ・フローダにいた。

 

そしてなぜか、その5年後の今日。

母と飯能のムーミンバレーにいた!(笑)

 


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面白いもんだね。

生きてると、いろいろあるんだなぁ。

続けてみないとわからない。

生きてみないと、わからない。

その場の激しい感情だけで、過去や未来や、今日のもつ意味を勝手に決めつけてはダメですね。

 

最近、自暴自棄になる度、あたまに浮かんでくる言葉がある。

 

自分を軽んじるな!

命を軽んじるな!

すべては大きな流れの中にある。

 

わたしたちは、どこから来て、どこへ還るのだろう。大きな流れのなか。

もがきながら、濁流にのまれそうになりながら、進むしかない。

 

捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ。

いらないものを、手放していく旅の途中に誰もがいる。

 


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劣等感のカタマリ

いつの間にか、もうとっくに乗り越えたつもりでいた「劣等感」が、久しぶりに顔を出した。

 

昔は自分という人間を構成する成分の90%以上が「劣等感」だったと思う。

懐かしい顔なじみだが、まったく過去になっていなかった。

衝撃を受けた。

 

施術のことで、友達と昨日話してて、

「自分 自分 自分」ってなってることに気づかされた。

いざそれを正面から指摘されると、がーん。キッツぅ―(;´Д`)

って感じ。

 

ここんとこ、技術を高めるために、結構努力してたし。

ってか努力はずっとしてるんだけど。

講習にも通い、体の本も読み、仕事で試してがんばっていた。

技術が欲しかったから。

全てをはねのけてあまりある、有無を言わさぬ技術がほしかった。

 

なんかいっきに、なんのためにがんばってるのかわからなくなった。

 

わたしのがんばりって結局、

「誰かに」自分を認めてもらうための「代償行為」だったことに気づいた。

 

そもそも「癒し」って言葉が好きじゃないし、

「誰かのため」とかそんなに思っていない。

わたしには、圧倒的に「癒してあげたい優しい気持ち」が欠如している。

セラピストやってる人は、自分がボロボロになっても人に尽くしちゃうようなやさしい人も多い。

それが良いとか悪いとかじゃなくて、そういうのがわたしにはほとんどない。

基本、「自分のため」だし、技術を磨くのは純粋に楽しい。

 

とにかく誰にも何も言わせないだけの、ぐうの音も出なくさせるだけの、

「圧倒的な技術」がほしかった。

上手くなりたくて、結果の出せる人になりたくて、必死でやっていた。

結果が出したかった。

 

でも、「なんで?」って言われたら、なんでだったかわからなくなった。

そんで、考えた。

わかった。

 

わたし、社会の王道を生きている人たちに、自分を認めさせたかったんだ。

「対等」になりたくて必死だった。

これまでずっと、社会からはみ出してきたことが、悲しかったし、情けなかった。

なんてダメな人間なんだろうと思って、ずっと苦しかった。

もう10年以上前に、父を亡くして働けなくなったときに感じた強烈な「挫折感」と「絶望感」が、知らぬ間に今のわたしを突き動かしていたのかもしれない。

あのとき粉々に砕け散った自尊心を立て直すために、わたし、今度こそ誰にも何も言わせないほどの「圧倒的な実力」がほしかった。

 

あのとき社会からはじき出されて、本当につらかったから、生きている価値がないと思ったから、今やっと、社会とつながるためのマッサージという武器を手に入れて、わたし、「ダメじゃない」って、「生きてる価値がある」「社会でちゃんとやれてる」って思いたくてがんばってたのかもしれない。

でもそもそも、現実の世界では誰も、今のわたしを「ダメ」だとも「価値がない」とも思ってないのよ。たぶん。

あのときのわたしを救うための「代償行為」でしかない。

そこにマッサージを受ける側の人って、不在なんだよね。

もちろん、施術する時はちゃんと相手のこと考えてやってるけど、もっと深いところ。「技術を磨いて結果を出したい」というふつふつとした思いの出所についての話。

 

もうこんなに時間が経ったのに、あのときの強烈な挫折感と自己否定が、不安と恐怖がわたしのなかにまだ生々しく残っていることに気づいた。

自分は社会に適応してうまくやっていけない。

どうしよう。

これからどうやって生きて行ったらいいの。

わたしなんて、生きてる価値がない。

と、毎日毎日思って死にたかったあの頃。

 

思い出したらなんか泣けた。

よく、ここまで立て直したな。自分!と思った。

 

わたしは基本的に、生きてるのがつらい。

自分の中に、いつも葛藤があって苦しい。

社会の中でふつうにやれない。

でもたぶん、外からはそんなふうには見えない。

明るくて社交的な人だと思われていると思う。

 

あのときの自分を救いたくて、わたしがんばってきたのかもしれないな。

 

でも心の中ではいつもイライラしてるし、焦っている。

がんばってもがんばってもまだ「足りなくて」「報われない」感じがして、疲れ切ってる自分がいる。

だって、わたしよりすごい人はいくらでもいて、わたしはその人たちには追い付けない。わたしが進んだ分だけもっと、その人たちも進んでる。

そういう基準にとらわれていると、がんばってもがんばっても自分は「まだまだ足りないダメなまんま」に感じられて、ダメだしされるのに疲弊してきてる。

 

このままじゃダメだな。

 

結局動機が「不安と恐怖」なんだよ。

自分の顕在意識では「お互いの喜びのため!」と思ってたけど、それも嘘じゃないけど、圧倒的に「不安と恐怖」の占める比率がでかい。

「我」でいっぱいなんだよ。

 

それに気づいたら、

力が抜けた。

嫌になった。

疲れた。

 

人間として生まれて「我をなくす」って、死にたいほどつらいわ。

だってそもそも「我」しかないもん!

そんなことできやしないよ!と思う。

なのにチャレンジしなきゃいけないの?

嫌になってくる。

もう欲望に忠実なクソ人間でもよくない?

なんでわたしはこんなに、「よく」なりたいんだろう。

人間としても、性格も、考え方も、技術も。

「よく」なりたい。

でもそれが苦しい。

 

しばらく努力するのやめる。

なんか、ばからしい。

もっとおおらかで、気にしない、気にならない性格の人に生まれたかった。

 

手島静子「104歳になって、わかったこと。」②

matogrosso.jp

 

このサイトで全文読めるみたい。。

太っ腹だなあ。

 

こんなおばあちゃんが近くにいる人は幸せですね。

わたしはお年寄りに縁のない人生を送ってきたので、まったく「親しみ」のような感情が湧かない。自分の全部を受け止めてもらえて、愛してもらえたような経験って親以外であまりないし、親ですらそんなにないな。

 

みんなに、こういう年長者が一人でもいたら、人はゆがまずに育つことができるのにね。

 

 p66

 お客さんの「色」が見える。

 

 「てしま食堂」も、わたしがいなくなったあとのことは心配です。

  子供たち、孫たちは、みんな毎日がんばってくれているけれど、まだまだぜんぜん足りません。

 

 今ごろの人たちはみんな、自分のことで忙しいでしょう。

 ちょっと時間があると携帯電話とにらめっこして、おしゃべりを始めちゃう。

 

 わたしはいつもこの席に座っています。ここに座っていると、お店全体が見渡せます。入り口から入ってくる人を最初に見ることができるのもこの席です。わたしはおばあちゃんだけど、今もこの店で一番お客さんのことを見ているの。

 

 わたしには、お客さんの「色」が見えます。

 ハッピーな人、さびしい気分の人、悲しい人、イライラしている人、急いでいる人、ひとりでいるのが好きな人。

 そういうのがわかるんです。

 人の色が見えるの。

 ハッピーな色の人なら元気に笑顔で挨拶して、さびしい色の人にはこちらから近づいていって話しかけて。急いでいる人なら、なるべく早く注文を聞いてあげて、すぐお料理を出してあげるのが肝心。

 お客さんには、それぞれの色がある。あの入り口から入ってきたときに、そういう「色」が見えるんです。

 

 p68 

 感じること。

 

 いつも座っているこの椅子とテーブルが好き、この場所が好きなの。

 ここからは店のすべてが見える。すぐうしろにキャッシャーがあって、お客さんが入ってくるドアもよく見える。

 ここに座っていると、お店の感じがよくわかる。色、空気、雰囲気、風、匂い、いろんなことがすぐわかる。お店の声が聞こえる。

 お客さんの色が見えるように、わたしにはいろんなことが感じられます。

 I feel it.

 わたしには感じることができる。

 

 今ごろの人たちはすぐに言い合いになるでしょ。わたしの子供たちもそう。

 すぐケンカする。

 

 何も言わなくても感じられれば、言い合いにならないのに。

 近ごろはみんな、感じられなくなってしまっている。

 もっと感じ合えばいいのに。

 

 p78

 わたしたちはみんな、理由があって生かされています。

 

・・・中略・・・

 

 お金は、仕事をたくさんすれば貯めることができるでしょう。でも心を買うこと誰にもできません。

 

 人間として大切なのは、思いやり、寛容さ、生き物にやさしくすること、謙虚であること、そして、人に尽くすこと。

 

 わたしは自分の子供たちに「謙虚であれ」と教えてきました。決してウソをつかず、勤勉で、勤労であれと、子供たちにはそういう心を伝えてきたつもりです。

 息子や娘、孫たちに、お小遣いをたくさん渡したことはありませんし、これからもないでしょう。

 わたしが死んだら、わたしのお金は彼らのものになります。でもそれは、わたしが死んでからのこと。それをどのように使うかは彼らが自分で決めることです。

 

 人生の意味は、お金では決して買うことができません。

 

 p114

 自分が今、できることを一生懸命にやる。

 それが、生きる、ということです。

 

 お店で働いている人が、もし「もっと給料が欲しいから別のところへ行く」と言ったら、わたしは止めません。

 わたしは、自分からは何も言いません。去る人は止めません。でも、自ら「やりたい」という人には、チャンスをあげたい。

 

 今、キッチンの洗い場で働いてくれている色の黒い男の子は、ミクロネシアからの移民です。ほかでは働き口がなくて、うちへやって来ました。

 やって来たばかりのころ、あのボーイ(色の黒い男の子)は、英語がほとんどできなかった。でも、ひとつ教えるとそれを一生懸命やり、もうひとつ教えるとそれをきちんと覚えました。

 

 He is a very good boy!

  とてもよく働くいい子です。汚れる仕事、、人が嫌がることをきちんやる。

移民の彼にとって、ここで働けるのは幸せなのです。ここでした働けないことをあのボーイは知っている。だから彼は、ただ一生懸命に自分ができることをやっている。

 

 自分が今、できることを一生懸命にやること。

 それが、生きる、ということです。

 

 

 

手島静子「104歳になって、わかったこと。」①

 

104歳になって、わかったこと。

104歳になって、わかったこと。

 

 

 

ワイ島コナに、日系2世として生まれ、食堂を営むおばあちゃんのお話。

 

104歳でもお店に出ているというから驚きだ。

2013年に106歳で亡くなったそうです。

本は2011年に発売されている。

 

1907年に生まれ、2013年まで100年以上。

激動の世界を見続けるって、どういう気持ちなんだろう。

生き証人、って、まさにこの方のような人のことを言うんだろうな。

図書館でなんとなく目に留まって借りた本。

文字数少ないし、読み易そうだったから借りた。

 

とてもまねのできないすばらしい人生の歩き方。

人の一生って、つくづくお金や名誉や肩書では計れないものなのだな。と思う。

お会いしたことがないのに、手島おばあちゃんがどれだけ多くの人から愛されているかが、本の中からびんびん伝わってくる。

人に心を尽くし、ただただ一生懸命に働き、尽くした人々から年齢や国籍を問わずに愛された人間の一生って、こんなにも偉大で貴いものなのか。

彼女は有名になりたいとか、露ほども考えていなかっただろう。

でもたぶん、まわりがほおっておかない。

 

好きだった箇所を引用します。

 

 p32

 すべてをひっくるめて、自分の人生が好き。

 

 ハワイが大好きです。

 ここはプレッシャーがあまりなくて、いつでもリラックスしていられるでしょ。

 

 ハワイでも特にこの辺り(コナのホナロ村)は田舎だから、となり近所とっても仲がいいの。昔は、みんな知り合い、家族みたいなものでした。

 

 出逢った人、起きたこと、人生のいろんな出来事や場面を覚えています。そして、そういったすべてをわたしは好きです。

 

 いろんなことがありました。大変なことも多かったし、つらいこともたくさんありました。でも、そういったことすべてをひっくるめて、わたしは自分の人生が好き。

 

 I think I like my life.

 

 わたしは、わたしの人生をけっこう気に入っています。

 

 p50

 みんな砂浜で横になって、見上げれば満天の星空。

 

 ハワイ諸島でも、この辺り、ハワイ島のコナの辺りは、田舎です。昔は、もっとすごい田舎でした。

 田舎だから、みんな仲良しで、地域全体がひとつの大きな家族のようでした。都会だと、競争とか、いろいろあるんでしょうけれど、わたしが育ったこの辺りは、競争とは無縁。みんな助け合って生活していました。そういうところは、田舎のよいところ。

 

 野菜を育てて収穫すると、必ずみんなで分け合いました。コーヒー豆ができたら、みんなにあげました。

 

 幼いころ、知り合いの日系人の家に遊びに行くと、わたしも家族の一員でした。ひとつの布団で寝たり、同じ部屋に隣同士で寝たり。みんな気にしませんでした。

 今ごろはもう、そんなことはできないでしょう。

 

 昔、いくつもの家族で一緒に、お休みをとって海辺へ行きました。ファミリー・ピクニック。夜になると、浜辺の樹の下に、みんなで一緒に寝たものです。布団があったかどうか、覚えていないけど・・・。

 みんなで一緒に砂浜の上に横になって、見上げれば、満天の星。

 

 p52

 海辺の小屋で、夏休み

 

 昔、海辺に住んでいたハワイ先住民のところに、夏になると遊びに行っていました。

 小さな、夏休みでした。

 先住民たちは、海のすぐそばに、茅葺き屋根家を手作りして、住んでいました。掘っ立て小屋のようなものです。そういう小屋が、あのころ、海辺にはあちこちたくさんあって、誰も使わなくなった小屋もあったんです。

 家族でロバに乗って海辺へ行き、空いている小屋を使いました。わたしたちが海で遊んで、小屋に泊まっても、先住民たちは何も言いませんでした。彼らはいつも笑顔。のんびりしていて、いい人たちばかり。フレンドリーで、オープン。

 そのかわり、彼らがコナの方へやって来たら、今度は彼らが好きなだけわたしの家に泊まれるの。こっちも泊まらせてもらっているから、あっちも自由に泊まれるの。

 そんな時代でした。