深呼吸図書館

悩めるあなたのための1冊アドバイザー“なついちご”が、今のあなたの気分にぴったりの本紹介します。

聴いてくれたから

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挙動不審ですみません。

なんか精神的にスコンと落ちちゃって。

なにもかもが無意味なような、すべてに価値がないような、やる気ゼロな精神状態でふつーに生活してました。

 

たまにこうなる。

前触れはないけど、よくよくあとから考えると、女子の日が始まる前なことが多いかもな!たぶんPMSだよね。うん。

 

あと、単純に書きたいことがなくて。

誰のために、なにがしたくて自分がブログを書いてるのか、よくわからなくなってしまった。

 

今もよくわからないけど、リアル友達二人からブログのこと心配されていた。

リアルって有難いと思った。

 

先週の間に2回、「話を聴く」ということについて考えさせられることがあった。

 

そのうちの一人は、ブログ読んでくれてるリアル友達。わたしの怪しい話、楽しそうに聴いてくれた。おいしいもの食べて、嫌われる心配もなくしゃべりまくれるのって幸せだ!

また気が向いたら難しく考えずに書きなよ〜、ってやんわり背中を押された。

あと、動画あとで見ようと思ってたのに、消えてたよ!って言われて、ハッとした。

そうか。そんな人もいるんだ。

せっかく読んでてくれた人に悪いよなぁ。と思った。

 

 

二人目は、6月に生まれた姪っ子。

しゃべれない姪っ子にふざけて、大人に話すみたいに今日はこうでね…って一日のまとめを話したら、ものすごく楽しそうに嬉しそうに、ニコニコして聴いてくれていた。

あの、聞いてるよ〜!って全力で言ってるキラキラした目。

なんだか、ものすごく感動してしまった。

赤ちゃんって天使だなぁ。

わたしは特にイイトコ取りのおばさんだから、ただただ感動してしまうよ。

 

たまに、〇〇ちゃんもそう思うよね?って言うと、赤ちゃん特有の弾むような声で「っあ~」って返事して面白い。

 

そうかぁ。

人って大事な人がしゃべれてもしゃべれなくても。何かができてもできなくても、笑ってくれるだけで、じんわりうれしくて幸せなものだよなぁ。

 

そんなふうに感じた。

父が亡くなる前もそう思った。

何もできなくても、ただそこに存在して、笑ってくれるだけでうれしい。

そんな気持ちを久しぶりに思い出したよ。

 

死んでいく者も、

生まれてきた者も、

なにもできなくても、

その存在がそこにあって、

笑ってくれるだけでうれしいということがある。

 

それは、なんだか救いになるもんだ。

聴いてくれてありがとう。

それだけで、生きる元気が出てくる気がする。

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安曇野愛


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わけもなく好きでたまらない場所ってある。

同じ旅でも、鷲掴みされて離れられない場所と、一回でいいかなー。って終わる場所。

 

安曇野穂高は、好きで好きでたまらない場所だ。秋になると行きたくなる。

 

ただ自分が見たいから写真貼り付け。

大王わさび農場に住みたい。

なんでこんなに長野が好きなんだろ。

でも、松本方面ばかりで、善光寺とか長野方面は一回も行ったことないや。

毎年行けるくらいお金稼ぎたいなぁ。

 


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晴れた休みの日は最近ほぼ家にいて家事やりまくっているので、気づいたらめちゃくちゃ運動不足。

 

台風夜中すごくてびっくりしました。

だけど、朝のきれいなこと!

清められた大気。

光る世界。

自然はすごいな。

どんより淀んで曇っていた9月の最後の最後に思い切り清められた感じがする。

 

晴れの日が続かないかなぁ。

広々したところに、ウォーキングしに行きたいよ。

体はガチガチだし、太ってるし。

 

秋を探しにおさんぽしたーい。

グリーンファントムの島

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ジオラマって、意外と好きだ。

独特の世界観がある。

グリーンファントムクラスターの上に、思いがけずプレゼントでもらったビスマス鉱石と中にラリマーが入ったかわいい亀さんのせてみた。

うっすらしたグリーンの聖なる島の神殿と、そこを守る亀。という設定。

レムリアっぽくて気に入っている。

 

 

久しぶりに秋らしい透き通る青空の一日。

衣替えをすませて、そうじも洗濯も布団干すのもクリスタルの日光浴も、とにかくめまぐるしく働いた。

 

ベランダの目の前の金木犀が咲いて、夢のような香り。幸せ〜。

9月は晴れの日が本当に少なかったなぁ。

太陽のありがたみを存分に味わった一日。

秋って最高だわぁ〜。


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マリア様

なんかわかんないけど。

今日はマリアさまな気分。

五島列島に行って、20近い教会を回ったときの写真。

こぢんまりとして、清潔で美しくて、信仰が現在進行形で息づいていた。

 

わたしは、キリスト教の教えにはどうもなじめない。磔にされたイエス・キリストを見るのがくるしくて昔から苦手。

でも、マリアさまは好き。

いろいろなお顔のマリアさまがいらっしゃった。「愛」という言葉はいつもしっくり来ないけれど、「慈悲」という言葉は胸に染みてくる。

 


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教会とか、賛美歌が好き。

立派な教会じゃなくても、こぢんまりとして清潔感のある教会と、そこに射し込む光が好き。


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矢追日聖「やわらぎの黙示・2」

矢追日聖さんの「やわらぎの黙示」より、文章をお借りします。

 

やわらぎの黙示 (ことむけやはす 1)

やわらぎの黙示 (ことむけやはす 1)

 

 

 

p177~

 世界平和への道

 

 無計画の中に計画があり、無統制の中に統制があり、無秩序の中に秩序があって、神の摂理に基づく行動が、大倭を主軸として刻一刻、力強く胎動を始めているのである。

 大倭の霊波は顕幽にまたがって波紋を大きく画いて伸びていく。それにともなって霊界・現界ともに浄化活動を起こす。これも因果関係の働きである。霊界で浄化した霊波が徐々に現界に及ぼしてくるとなれば、真の平和を願う気が現社会に満ち満ちてくる。この気がまた還元すれば、霊界の悪意は力を失せていく。

 

 遠き将来かもしれないが、こうしたところまで漕ぎつけることができれば、もし過去世の悪因縁によって人類を攪乱しようと企てる者があっても、あるいは無数の原水爆を保持していたとしても彼らの邪悪の想念はやがて自分に戻ってきて、ついに自分の持つ凶器で自分を殺すのが必然の帰結といえよう。武術の極意はよくこの理を示しているものである。

 

 大倭が顕幽一体の形において神が示し給う運動を推し進めて行く合言葉、すなわち霊界と現界を結びつける円滑な交流の言霊(エネルギー)として示されたものが、

「ナモ、タア、カア、マノ、ハラ」(奈母太加天腹)であった。

誰か一人この音波を大宇宙に放つならば、宇宙創成の気にして全智全能におわします大祖神(おおみおや)の神威を受けついでいる万物万霊そのことごとくが、一糸乱さぬ整然さをもって、大倭に垂示された一大使命を完遂させるために、その一翼となって羽ばたくよう、時の流れが定めているのである。

 

 真の平和社会を祈る者は、まず「みそぎ」によって自己本霊の浄化に努め音高々に柏手を打ちながら「奈母太加天腹」の言霊を大宇宙に向かって高唱することが望ましい。私は強制しないが悟れる者ならば自らの琴線に触れるものがあると信ずる。われから発するものが浄霊波であれば、それは即刻自分のもとに戻ってきて、やがては自他諸共幸いにする働きとなる。相対的に存在する神はいないので、神を祈ることは、すなわち自己本霊を祈っていることになる。神ながらの御本尊には自己の現身を映す鏡が掛かっているのも神人は一体だからである。

ただし霊界にある人格霊は人間と同じく神の本体ではなく、その分神霊としての被包括的神であると説明した方が分り易いと思う。

 

 霊界は本年に入ってから一段とその動きが活発になってきた。それと共に大倭は対人交流もいよいよ繁くなりつつある。既成宗教の如き形においての大倭教の拡大は真平御免であるが、世の人々の心の中に生まれながらにして包含されている神ながらの神性を引き出すために、私は全生命をかける決意を新たにしている。

 

今はただ一身一家族の幸福のみを願うときではない。世の人々の心の中に本質的宗教の灯を点ずることによってこそ、自己の幸福も保障されるのである。せめて大倭に縁をもつ少数の人だけでもよい。こうした意味に基づく精進を重ねることが大きく世界平和に近づく最善の道であるとわたしは信じるものである。

 

(昭和40年3月29日)

 

 

p298

 平和な人間像

 

 一般の人が望んでいる平和社会は住みよい社会を指しているようだ。それを制度の上に求める人が多い。それも悪くはないが、誰かがするだろう、してくれるだろうという甘ったるい考えの人も多いようだ、自分の手でやるのだ。やらねばならないという積極的な自覚がほしいものだ。それは広く世間というより、自分個人及び家庭の問題として取り組んでほしいのである。

 

社会は相互扶助で成り立つ協同体であるからだ。長年苦悩をもつ人々の相談に応じてきた私が常に気付くことだが、国家社会を云々する前に個人並びにその家庭の人々が、自らの手によってその家庭や自分を治めることが、如何に社会的に見て重要な意義をもつものかと痛感させられた。

 

ここで幸せに暮らせる人間像を簡略に述べるならば、

 

人に責任を押し付けない心、

 

個性や能力の差異を認めながら人と調和できる心、

 

人の命の尊厳さが分かる心、

 

苦楽を共にできる心、

 

衣食住に囚われない心、

 

利害に走らない心、

 

人間すべて自分の仲間と感じられる心など

 

挙げれば切りがないが、以上のような心の持主が平和社会の原点になると考えられる。

この個の波紋が広がることによって住み易いこの世が生まれてくる。

換言すれば平和社会は個人の手の内に実在しているものといえる。

 

 

     ・・・・・・・・引用終了

 

最後に「ながそねの息吹」より、日聖さんが「神ながら」の古代信仰について話しておられる部分を抜き出します。

 

「ながそねの息吹」p274~

 

 私は古代史の研究家でも学者でもない。正直いって私は「神ながら」の古代信仰を現代社会に再び蘇らせるための宗教人に過ぎない。いま、世界中にある各種の宗教がいつかは帰一しなければならない根源をもつ神ながらの信仰、換言すれば自然にある山川のような姿、自然から起こるいろいろな現象、自然からくる微妙な感応(動物的本能)などによって、自然のすべてを加美と美、自然にすべてを順応した暮らし方をするという自然信仰を日本国に於いて開顕しようとすれば、必ずそこに日本領土内に存在した過去の問題を知らねばならないし、また、その歴史の流れの中から神ながらの法を説明する必要も起こってくるので、そうした意味のもとに、私は参考までに日本の古代を観察してきたのである。

 

 ものの結果には、必ずその結果を生み出す原因が先に発生しているはずである。

 心ある人ならば、現代社会の実情をみれば必ず嘆いていることと思う。この混濁な世相の依って来る根源を、私は端的に古代人(我々の祖先)が最高至上と信じていた「神ながら」を忘れてしまったからだと言いたいのである。

 

 現代人の精神内容を覗くならば、その殆どは加美・かみ(自然)の摂理に逆らっているように見える。

もしそうであるとすれば、当然その報いは現代人の我々がいやおう無しに享受せねばなるまい。人生の不幸を喜んで受ける御仁は現代社会に幾たりあるであろうか。

 

 神(かん)ながらは、顕幽一体に仕組まれている。

それは有形無形を問わず微に入り細にわたってできている。

とても人間の智能ではその全体を明かすことは不可能である。

神ながらの摂理の一部分に属しているものだが、姿なき人間(霊界人)と肉体を有する現界人が相互扶助の関連性によって結ばれているということは、私はまるで私の専売特許のように言挙げしてきた。

 

 この両者がほんとに融和交流の実を挙げたとき、初めて現界霊界が平穏に静まりかえるのである。

 

その到来の時機は人間では分からないが加美ははっきり御存知と思う。

 

 

    ・・・・引用終了

 

この文章の後にも霊界人の細かな説明が続きますが、今日はここまででおしまい。

また機会があって、元気があったら紹介します。

 

日聖さんが亡くなられて22年。

世相はますます混濁を極めている。

わたしも、ご存命の間にお会いしたかったな。

と思う。

 

でも、ご本人はね。

死んだ後もどこにも行かずに「大倭にいる」とはっきり生前おっしゃっている。

わたしもいつか行ってみたい。

奈良の大倭神宮へ。

 

日本民族の本当の一番古いご先祖さまは

奇稲田姫命さま、須佐之緒命さま、そしてそのお二人の子供である饒速日命さまである。

そして、歴史において逆賊とされてしまった「ナガスネヒコ」は、個人の名前ではなく饒速日命の子供たちが代々受け継いできた近畿一帯を治めた「大王」の名前であると、日聖さんは繰り返しおっしゃっている。それを明らかにするのが自分の使命であると。

 

日本民族の本当の祖廟(ご先祖さんの場所)は大倭神宮のある場所だと本の中にもあります。伊勢でなく・・・奈良に。

わたしはなぜが、この話が腹にストンと落ちる。

理屈じゃなく、「あ~、そうだったんだな。」としみじみ思う。

大倭の語源はもともと「大親元(おおおやもと)」から来ているという説明もとてもわかりやすい。そして、奈良は、隠されてきたことによって長いこと守られてきたのだろうとも思う。

 

 

歴史が捻じ曲げられてしまったことに対して、霊界の日本民族の真のご先祖様である方たちのうっぷんがたまっているから、「日聖さん」がその真実を明らかにするために生まれた。と、ご本人は何度も語られている。

 

わたしは、それを信じる。

理屈じゃなくフィーリングで信じる(笑)

 

ここに書かれていることを信じても信じなくても個人の自由だ。

だけど、たった一人でも、今日紹介した文が心に響く人がいたらうれしい。

 

祝詞のあとに、「奈母太加天腹」 とわたしは唱えている。

霊界はわたしには見えないけど、エネルギーも見えないけど、日本や世界が「神ながらの法」に基づいて「大らかで和やかな幸せな世の中」になることを願って唱える。

 

最後に。

「ながそねの息吹」の最後に出てくるこの「うた」がわたしは大好きです。

 

 

あさみどり

 

雲の八重垣わけ出でて

 

われ世に生(い)ずるそのときは

 

八百萬代(やおよろずよ)の神(かん)だちが

 

集い来たりて大倭

 

天の沼矛(ぬぼこ)のたつときぞ

 

 

矢追日聖「やわらぎの黙示・1」

 

やわらぎの黙示 (ことむけやはす 1)

やわらぎの黙示 (ことむけやはす 1)

 

 

いままでわたし、20年くらいにわたって様々な自己啓発本、スピリチュアル本、霊的な本やブログを含めて数知れず読んできた。

その中で、腹の底から「真実」だと思った言葉。

それは、前にも書いた通り、「矢追日聖」さんの教えのなかにありました。

 

何度も言うけどわたしは「宗教」が好きではない。アレルギーと言ってもいいほどその言葉に拒否反応が出る。でも、「神道」は宗教ではない。日本人の「精神文化」であり「伝統」であり、日本という国の「国体そのもの」だと思う。「祓い清めの精神」「日本人独特の清浄感」は、わたしたちのDNAに組み込まれている。意識する、しないに関わらず。

それが「血」の中に「ある」ということは、本人が忘れていたとしてもなにかのきっかけで「めざめて」「働く」可能性が「ある」と思う。

 

日聖さんは、行きがかり上「宗教」ということで活動されたが、「信者は一人もいらない」と言っているし、あくまで「幸せになるための心のあり方」を「古き良き大和の国」を手本に皆に説かれた。

 

その思想が興味のある人に一人でも多く広まることを願って、今回「やわらぎの黙示」から大幅に文章をお借りしたいと思います。読みやすいように適宜改行して引用します。関係者の方、不都合があればすぐ対処いたしますので、その際お申し付けください。

 

p173~

 悪因縁の浄化を

 

 広く世間を見渡せば、男性や女性の数が何時の時代にあっても大体バランスがとれているように思うのだが、個人家庭を見れば男子だけとか女子だけといった家があるのに、社会全体から眺めればうまく調和がとれているのは面白い現象である。両親の意志にしたがって、男女は生まれるものではないのだから、人間以外のところで全体の調和を考えながら計画している、超人間的な何ものかが存在しているに違いない、といった神秘的なものを若い頃の私はひしひし身に感じていた。。

 

過去の歴史が示す流れの一齣(ひとこま)は、人間の意志で作りなすものには相違ないが、全体の歴史の流れは人間の作為ではないのである。

 

私は人類の歩みについても唯物史観一辺倒ではどうも偏見のような気がしてならない。流れてきた現界の実相が人類の歴史であり、無常に流している力が霊界にある神慮と観るのが私の癖である。とは言え、霊界と現界は切り離すことはできない。互いに交流しながら一体となって、因・縁・果・報といった働きの関連性を具備しながら、何一つ漏らすことなく同じ原理にしたがって、たえず休まず繰り返しつつ、神意が示す未来像に近づくように今の今も転化しつつある。

 

大きくは宇宙から始まって、小さくは人間個人否肉体を構成している単細胞一個に至るまで、神意に基づいて動いているといえるのである。

 

 世にある多くの人々は、戦争も起こらないし、人と人とが喧嘩もしない、そして自由にして住み心地よい社会の出現を望んでいることと思う。私もその一人である。

 

過去の人の中にもこうした社会を夢みて死んでいった人達もあったはずである。それなのにどうしたことか、歯車の嚙み合わない機械が回転しているような現社会の実状は、せいてはどうすることもできないようだ。長い目で見よう。将来において出現する理想社会が生まれるような原因を、これからでもよい、自覚したものから下種しても遅くはないのである。

 

「戦争反対、平和建設」の声、現社会にあって耳にする言葉の中でこれほど嬉しく響くものはないのである。もし社会の人達が、真にこれを望むならば、現代人の多くの人々が心の中にもっている「人を呪う心、怒る心、人に頼る心、人と争う心」などを神ながらの法に基づいて練磨修養し、各自が放つ霊波長まず第一に浄化することが基礎的条件であると思う。かりにもせよ、自分から発した悪想念(霊波長)は邪霊的威力をもってふたたび自分のもとに帰ってくるのだから、その結果は自他ともに不幸に陥って、社会の浄化はおろかかえって悪循環を繰り返して、更には住み難い社会を招来することになる。

 

 以上、ふつつかな説明ではあったが、それらの意味においての因果関係の繰り返しによって、今のような社会が生まれたのである。ぼつぼつと過去世の悪因縁をほぐしながら、顕幽にまたがった浄化に努めなければなるまい。

 

 世には生まれ変わりということがよく言われているが、過去に亡くなった人がそのまま生まれ変わるということはない。あくまでも亡くなった人の霊魂は厳然と霊界に存在しているのである。だが今の日本の社会の権力者や指導階級の座にある多くの人々の中には、平安時代の源平両族から始まって、戦国時代に至る各武将やこれに類する人達の殆ど鎮魂浄化しないままの気を受け継いでいる人が多くいる。闘争に明け暮れ、魂魄この世に残して他界した者は、死後の世界においても争いの連続である。霊界の司は人間界においてそうした心を浄化させる親心をもってこの世に出てくることを許したのであるが、ひとたび誰かの肉体に宿れば、この甚深微妙な親心をすっかり忘れて、再び過去世の悪因縁を繰り返そうと努めるようになる。こうした想念が太平洋戦争にまで拡大したのも自然の成り行きである。ついに敗戦という浄化剤を神から賜った。

 

 次に気になることは、今次の戦いで死亡した幾万の世界の人々が霊界ではかなりの苦しみをもっていることである。しかし幸いなことには、これか世界立て直しの神政が始まる時代だから再びこの世に出る機会は早いと思う。そうなれば一応世界は平和どころか、かえって闘争の場となるのは必然である。平和を目標に進んでいるはずのものが、戦争を引き起こす原因に転化していくような不思議な流れに、抵抗しながらも押し流されることであろうと思う。

 

 まことに憂うべきこのような事態に備えて、霊界では何回かこの世に生まれて真の平和社会と人類の幸福に生涯をかけて祈りながら自己完成の道へ精進してきた覚者達を、数はごく少ないが、すでに世界の各地へ、今の世へ誕生させているはずである。この人達はそろって善因縁を自ら繰り返し、浄霊波を顕幽にわたって放っているのである。悲しいかな、これらの聖者達は社会の裏にあって懸命に表とのバランスをとるよう努めているから、今の世界には最終的な破壊もなく、争いながらも何とか保全の域にあるのである。

 

 高いところから見れば、今は霊界から現界に放たれている霊波は、黒ずんだ邪悪な争いを引き起こす性をもっている。と同時に現界に生まれている人間にもこの霊波をうけて踊るものが多いようにできている。また反面、これらの悪霊波をはね返して霊界から来る無色にして純な霊波と交流して、社会的浄化運動に挺身している少数の者もいる。私は長年の体験によって、後者の「命(みこと)もちて」日本に送られたという自覚を持つ一人である。私の場合は現界人を治めるよりも、霊界に鬱積して常に現界へ放たれている邪悪霊波を鎮魂浄化しなければならないようである。とはいえ、私だって社会の一員にすぎない弱い人間ではあるが、神ながらは有難いことに、類をもって集まるように仕組んでいるから、わたしがこの日本に生存するからには、霊界はこの運動を推し進めるに必要とする過去世からの宿縁の者を、時に応じてこの世に生まれさせている。そして何らかの人間関係によって私と結びつき、或いは私の身辺に集まってきて、その人なりに天賦の使命を果たしていくものである。

 

 

 

       ・・・・・つづく

 

追伸:雲が晴れて月が見えてきました。わーい(*´▽`*)