深呼吸図書館

悩めるあなたのための1冊アドバイザー“なついちご”が、今のあなたの気分にぴったりの本紹介します。

死んで私が体験したこと

 

死んで私が体験したこと―主の光に抱かれた至福の四時間
 

 

今年もあと今日含めて3日で終わり。

個人的には楽しいこともあったけど、葛藤の多い、エネルギーの変化に翻弄された一年だったなあ。と思います。とにかく浮き沈みが激しすぎた!

悩んで苦しんでる時間が多くて、あんまり前に進めなかった。

全部を含めて必要な体験だと分っていても、できないことの苦しさともどかしさと未来の見えない焦りと自己嫌悪で右往左往して終わっちゃった感じだよ。

なんか、情けない"(-""-)"

でも、これが今年のわたしの精一杯だった!

だから、健闘をたたえよう。

結果はどうあれ。

 

 

さてさて、今年最後のブログは、この本を。

ティー・イーディー「死んで私が体験したこと」

 

気になって読み返していた。

生きて行くのに励ましになる気づきがたくさんあったので、好きな箇所を転載します。

こんなグダグダブログに今年も付き合ってくださったみなさんへの感謝をこめて。。。

 

この本の著者は、敬虔なクリスチャンです。

ちなみにわたしは特定の宗教には属していません。

ただ、神道や「日月神示」、その他見えない世界のことをいろいろ勉強してきた中で、真理を語っているなあ。と感じるものは、必ず共通したひとつの法則に貫かれていると思います。

言ってることが一緒。

アプローチの仕方が違うだけ。

その点において、この本の中で語られていることは、わたしが自分なりに最終的に「これが真理」だと思った考えにとても近い。

 

本文中に何度も出てくる「神」という言葉は、今の時代に合わせて解釈すると「宇宙」や「サムシンググレート」という言葉に当てはまるような気がします。

 

要するに、彼女が話してくれていることは、臨死体験者が実際に霊界で教えられた「宇宙の法則」であり「宇宙の真理」です。

信じるか信じないかはわたしたちの自由意志に委ねられている。

もし、この文章の中からなにか自分を肯定し、励ましになるものを受け取ってくださる方が一人でもいらしたらうれしいです。

 

 

p90  

*適宜読みやすいように改行しています。

 

神は、法則とエネルギーと物質のすべてを支配する権威をもっておられます。わたしたちの世界には陰と陽の二つのエネルギーがあって、そのどちらもが創造と成長に必要なものだったのです。そのエネルギーには知性があって、人間の意志をおこなっています。そのエネルギーはわたしたちの意のままに動く召使いなのです。

 

神はこの二つのエネルギーのうえにぜったい的な力をもっておられます。

陽のエネルギーには、次のようなものがあります。

光、善良、親切、愛、忍耐、慈善、希望、こういったものです。

 

陰のエネルギーは次のようなものです。

暗闇、憎悪、恐怖(サタンの最強の武器です)、不親切、狭量、わがまま、絶望、失意といったものです。

 

 陰と陽のエネルギーは、互いに対立して働いています。

そのエネルギーがわたしたちのなかに取りこまれると、よく働く召使いになります。

陽のところには陽が集まり、陰のところには陰が集まります。光は光を呼び、闇は闇を好みます。人間も陽か陰かのどちらかに傾くようになると、似たような人たちとの交わりがはじまります。陽になるか陰になるか、その選択はわたしたち自身の手に委ねられています。

 

前向きの思考だけを考えて、前向きのことばだけを口にしていれば、それだけで陽のエネルギーが集まってきます。本当にそのとおりです。

 

後ろ向きの人たちのまわりには、陰のエネルギーが取り囲んでいます。

口から出たことばが、その話し手のエネルギーの状態に現実に影響を与えるのです。

「ことば」それ自体、つまり空間の波動が、いずれかのエネルギーをそばに集めてきます。人の願望にも同じような効果があります。

 

人間の思考には力があります。

わたしたちは自分が考えたとおりに周囲の状況をつくりあげています。物質的にはしばらく時間がかかるかもしれません。でも霊的には一瞬の話です。思考がもっているこの力を知っていたら、わたしたちは自分が考えていることにもっと気を使うようになるはずです。自分のことばがもっているおそるべき力に気がつけば、悪いことばを口にするよりも、むしろ黙っていようと思うはずです。わたしたちは自分で考えたり、しゃべったりしながら、自分自身の弱さや強さをつくりあげていたのです。

 

諦めも喜びも、その源はわたしたちの心のなかにあります。

陰を陽に置き換えるのは、いつでも簡単にできる話です。

 

 人間の思考がこの永遠のエネルギーに影響を与えていくのですから、思考こそ創造の原点ということになります。すべて創造の出発点は心のなかにあります。

まず「考えること」からはじまるのです。

 

才能に恵まれた人は、自分の想像力を駆使して新しいものをつくりだしています。そうした新しいもののなかには、すばらしいものもあれば、がらくたもあります。

最初から豊かな想像力に恵まれて地球にやってくる人もいますが、そのなかには、この世で自分の力を悪用する人もいます。陰のエネルギーを使って、凶器にもなる道具やことばのように有害なものをこしらえる人がいます。

 

逆に自分の想像力を善いことに使って、周囲の人に幸せをもたらしている人たちもいます。まことの喜びをつくりだしているこうした人たちは、祝福されています。

心がつくりだすものには真の力があります。

思考こそ行為なのです。

 

 人生をもっとも充実して生きられるのは、想像のなかでだったのです。うがった言いかたをすれば、想像こそ現実への鍵なのです。こんなことは、いままで考えてみたこともありません。

 

わたしたちがこの世に送られてきた目的は、充実した人生を思い切り生きるためだったのです。

そして、新しい思考や新しい事物、新しい感動や新しい経験など、わたしたちがつくりだすもののなかに喜びを見いだすためなのです。

 

人間は自分の人生を自分でつくっていかなければなりません。いただいたたまものを使って、失敗と成功を体験していくのです。

 

人間は自分自由意志を働かせて、人生を開拓していかなければなりません。

 

p102

 

ふつうの人間にはわからないようなところで、霊は働いています。

思考をつかさどるのが精神で、行動をつかさどるのが肉体だということくらいなら、わたしにもわかっていました。ただ、霊というものが謎だったのです。でもいまでは、ほとんどの人にとって霊は謎なことがわかりました。多くの場合、精神は霊の働きに気がつかないからです。

 

霊は神と交わっています。

神の知識や洞察力の受信装置なのです。

 

それを知ることが、わたしにはとても重要でした。なんだかわたしの身体のなかに蛍光灯が埋められているような気がします。光がともっているあいだは、わたしたちの身体の中心は光と愛に満たされています。肉体にいのちと力を与えてくれるのは、そのエネルギーだったのです。その光が細くなって、霊が弱くなってしまうことがうあります。こうした事態は、暗い体験、つまり愛の欠如や暴力、性的な乱れといった害毒をもたらす体験をとおして、起こってきます。こうした暗い体験が霊を弱めていって、その結果、肉体も弱くなってしまいます。病気にはならないまでも、霊をもう一度充電しないかぎり、病気にかかりやすい肉体になってしますのです。

 

霊を充電しなおす方法は、隣人に仕えること、神を信頼すること、そして明るい思考をとおして陽のエネルギーに自分を明けわたすことです。それをコントロールするのは自分たちです。

 

エネルギーの源は神です。

そして、それはいつも手の届くところにあります。

しかし神の周波数に合わせておかないといけません。

神の力を受けいれないかぎり、わたしたちは自分の人生で神の力を味わうことはできません。

 

p107

 

 すべてこの世での体験は益とされています。

それを認めることがわたしにはたいせつだったのです。

 

p108~110

 

転んだら、起きあがってちりを払い、また歩きはじめなければなりません。もう一度転んだら、やはり前進しなければいけません。百万回、転んだとしても同じです。そうしていくうちに、思ってもいなかったような成長をとげていくようになります。

 

霊の世界では、罪はこの世とは別の見方で考えられています。

あらゆる体験が前向きなものとされています。

そして、すべての人がいろいろな体験をしています。

 

 自殺は決して考えてはいけません。自殺をしてしまうと、この世で成長していく機会を失ってしまうことになるからです。あとになって、失われた成長の機会を思いだすたびに、たいへんな苦しみと悲しみにおそわれます。神はひとつひとつの魂の裁き主であるとともに、それぞれの魂の試練の厳しさをも判定される方ですから、そのことを忘れてはいけません。

 

ひとつでもいいからなにか明るい行いのなかに希望を見いだすように努めるのです。そうすれば、以前は見えなかった光がかすかながらも見えてくるようになるからです。

 

絶望を正当化することはできません。

なぜなら絶望する必要など、どこにもないからです。

 

わたしたちがこの世で生かされているのは、学んで、体験して、過ちを犯すためです。ですから、みずからを厳しく裁く必要はありません。必要なことは、ただ人生を一歩ずつ歩んでいくことだけなのです。

 

他人の目を気にしたり、他人の物差しで自分を測ったりする必要はありません。

自分自身のことを許して、自分の成長を助けてくれたものに感謝していればいいのです。

 

つらくてどうしようもなかった体験が、いつの日にか、偉大な教師となってあらわれてくるはずです。

 

 

 すべての創造は思考とともに始まったのですから、罪もとがも絶望も希望も愛も、すべてその出発点はわたしたちのなかにあったわけです。すべての癒しわたしたちのなかから出てきます。すべて悲惨なこともわたしたちのなかから出ています。

 

わたしたちは絶望のらせん階段をつくることもできますが、幸福と達成のトランポリンをつくることもできるのです。わたしたちの思考には、驚くべき力が備わっています。

 

 わたしたちははいはいしている赤ちゃんのように、自分のなかの力の使い方を覚えているところです。その力はとても強力です。

そしてその力を支配している法則のおかげで、わたしたちは自分自身から守られているのです。しかしわたしたちが成長していくにつれて、人生に前向きのものを求めるようになると、法則そのものが姿をあらわしてきます。わたしたちのために用意されていたものが、すべて与えられるようになります。

 

p173~174

 

自分を許すということが、すべてを許すことの出発点だったのです。自分のことが許せない人には、隣人を心から許すことができません。わたしは隣人を許してあげなければならなかったのです。

 

自分が与えたものを、自分が受け取ることになります。

自分のことを許してほしければ、まず相手のことを許さなければいきません。わたしは、相手のしたことにめくじらをたてたり、許したりできないと思ってしまうたちの人間です。ところが自分だって同じことをやりかねないし、現にやっているかもしれません。隣人のしたことで自分の弱さがあばかれてしまうのではないかと、わたしはビクビクしていました。ひょっとしたら自分の潜在的な弱さにビクビクしていたのかもしれません。

 

 この世のものにこだわっていると、とんでもない害悪が及んできます。成長はすべて霊的なものだからです。物欲やむさぼりといったこの世的な欲望にとらわれていると、霊が窒息してしまいます。この世の欲望を神として崇めると、わたしたちは肉に縛られるようになります。そして、まことの神が望んでおられる成長と喜びを、わたしたちは自由に体験できなくなってしまうのです。

 

 今度はことばではなしに、わたしに与えられた英知がこんなことを語りかけてきました。人生で最もたいせつなことは、自分と同じように隣人を愛することだというのです。ところが、自分と同じように隣人を愛するには、まず自分自身を心から愛さなければいけません。わたしのなかにはキリストの美しさと光があります。主はそれをご存じです。今度は、わたしが自分の内側をのぞいて、それを探さなければなりません。すると、もともと自分の魂に備わっていた優美さを、わたしが自分でおさえつけていたことがわかりました。

昔のような美しい輝きを、もう一度取りかえさなければいけません。

 

p178

 

「この世にいるあいだ、自分の使命はなにかということにこだわっていてはいけない。そのときがくれば、必ず成就されるのだから」

 

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ふう。今年最後なので頑張って抜き出したよ(笑)

日本人のわたしには「隣人」って言葉がどうしてもピンとこないんだなぁ。

なので、わたしなりに日本人っぽく置き換えると

「われもよし かれもよし!」ってことだと思う。

あとはこどものときによく言われた「自分がされてうれしいことを人にしなさい。自分がされて嫌なことは人にもしてはいけないよ」ということと同じかな。

 

わたしは今年も相変わらず、自分のことが許せず、自分も人も裁いてばかりで、生きてるのが苦しかったです。

こんなにブログではいろいろえらそうに書いてても、実際はいくつになってもへっぽこで悲しくなります。

でも、とりあえず、「生きてること」「死なずにいること」がだいじ。それが、最低限できていれば、よしとするしかない。だって、可能性はいつでもだれにでもあるもの。

未来を勝手に決めつけず、今自分が「心地いいこと」を自分にしてあげる。

頭のなかで無理やり解決しようとせず、気持ちを逸らして、楽しいことやリラックスできることをやってみる。

そんなことを心掛けて、来年はやってみようと思います。

 

もし、同じように生きてることが苦しい人がいたなら、一緒にがんばろうね。

ではではみなさま、よいお年をお迎えくださいませ(*^_^*)