深呼吸図書館

悩めるあなたのための1冊アドバイザー“なついちご”が、今のあなたの気分にぴったりの本紹介します。

矢追日聖「やわらぎの黙示・2」

矢追日聖さんの「やわらぎの黙示」より、文章をお借りします。

 

やわらぎの黙示 (ことむけやはす 1)

やわらぎの黙示 (ことむけやはす 1)

 

 

 

p177~

 世界平和への道

 

 無計画の中に計画があり、無統制の中に統制があり、無秩序の中に秩序があって、神の摂理に基づく行動が、大倭を主軸として刻一刻、力強く胎動を始めているのである。

 大倭の霊波は顕幽にまたがって波紋を大きく画いて伸びていく。それにともなって霊界・現界ともに浄化活動を起こす。これも因果関係の働きである。霊界で浄化した霊波が徐々に現界に及ぼしてくるとなれば、真の平和を願う気が現社会に満ち満ちてくる。この気がまた還元すれば、霊界の悪意は力を失せていく。

 

 遠き将来かもしれないが、こうしたところまで漕ぎつけることができれば、もし過去世の悪因縁によって人類を攪乱しようと企てる者があっても、あるいは無数の原水爆を保持していたとしても彼らの邪悪の想念はやがて自分に戻ってきて、ついに自分の持つ凶器で自分を殺すのが必然の帰結といえよう。武術の極意はよくこの理を示しているものである。

 

 大倭が顕幽一体の形において神が示し給う運動を推し進めて行く合言葉、すなわち霊界と現界を結びつける円滑な交流の言霊(エネルギー)として示されたものが、

「ナモ、タア、カア、マノ、ハラ」(奈母太加天腹)であった。

誰か一人この音波を大宇宙に放つならば、宇宙創成の気にして全智全能におわします大祖神(おおみおや)の神威を受けついでいる万物万霊そのことごとくが、一糸乱さぬ整然さをもって、大倭に垂示された一大使命を完遂させるために、その一翼となって羽ばたくよう、時の流れが定めているのである。

 

 真の平和社会を祈る者は、まず「みそぎ」によって自己本霊の浄化に努め音高々に柏手を打ちながら「奈母太加天腹」の言霊を大宇宙に向かって高唱することが望ましい。私は強制しないが悟れる者ならば自らの琴線に触れるものがあると信ずる。われから発するものが浄霊波であれば、それは即刻自分のもとに戻ってきて、やがては自他諸共幸いにする働きとなる。相対的に存在する神はいないので、神を祈ることは、すなわち自己本霊を祈っていることになる。神ながらの御本尊には自己の現身を映す鏡が掛かっているのも神人は一体だからである。

ただし霊界にある人格霊は人間と同じく神の本体ではなく、その分神霊としての被包括的神であると説明した方が分り易いと思う。

 

 霊界は本年に入ってから一段とその動きが活発になってきた。それと共に大倭は対人交流もいよいよ繁くなりつつある。既成宗教の如き形においての大倭教の拡大は真平御免であるが、世の人々の心の中に生まれながらにして包含されている神ながらの神性を引き出すために、私は全生命をかける決意を新たにしている。

 

今はただ一身一家族の幸福のみを願うときではない。世の人々の心の中に本質的宗教の灯を点ずることによってこそ、自己の幸福も保障されるのである。せめて大倭に縁をもつ少数の人だけでもよい。こうした意味に基づく精進を重ねることが大きく世界平和に近づく最善の道であるとわたしは信じるものである。

 

(昭和40年3月29日)

 

 

p298

 平和な人間像

 

 一般の人が望んでいる平和社会は住みよい社会を指しているようだ。それを制度の上に求める人が多い。それも悪くはないが、誰かがするだろう、してくれるだろうという甘ったるい考えの人も多いようだ、自分の手でやるのだ。やらねばならないという積極的な自覚がほしいものだ。それは広く世間というより、自分個人及び家庭の問題として取り組んでほしいのである。

 

社会は相互扶助で成り立つ協同体であるからだ。長年苦悩をもつ人々の相談に応じてきた私が常に気付くことだが、国家社会を云々する前に個人並びにその家庭の人々が、自らの手によってその家庭や自分を治めることが、如何に社会的に見て重要な意義をもつものかと痛感させられた。

 

ここで幸せに暮らせる人間像を簡略に述べるならば、

 

人に責任を押し付けない心、

 

個性や能力の差異を認めながら人と調和できる心、

 

人の命の尊厳さが分かる心、

 

苦楽を共にできる心、

 

衣食住に囚われない心、

 

利害に走らない心、

 

人間すべて自分の仲間と感じられる心など

 

挙げれば切りがないが、以上のような心の持主が平和社会の原点になると考えられる。

この個の波紋が広がることによって住み易いこの世が生まれてくる。

換言すれば平和社会は個人の手の内に実在しているものといえる。

 

 

     ・・・・・・・・引用終了

 

最後に「ながそねの息吹」より、日聖さんが「神ながら」の古代信仰について話しておられる部分を抜き出します。

 

「ながそねの息吹」p274~

 

 私は古代史の研究家でも学者でもない。正直いって私は「神ながら」の古代信仰を現代社会に再び蘇らせるための宗教人に過ぎない。いま、世界中にある各種の宗教がいつかは帰一しなければならない根源をもつ神ながらの信仰、換言すれば自然にある山川のような姿、自然から起こるいろいろな現象、自然からくる微妙な感応(動物的本能)などによって、自然のすべてを加美と美、自然にすべてを順応した暮らし方をするという自然信仰を日本国に於いて開顕しようとすれば、必ずそこに日本領土内に存在した過去の問題を知らねばならないし、また、その歴史の流れの中から神ながらの法を説明する必要も起こってくるので、そうした意味のもとに、私は参考までに日本の古代を観察してきたのである。

 

 ものの結果には、必ずその結果を生み出す原因が先に発生しているはずである。

 心ある人ならば、現代社会の実情をみれば必ず嘆いていることと思う。この混濁な世相の依って来る根源を、私は端的に古代人(我々の祖先)が最高至上と信じていた「神ながら」を忘れてしまったからだと言いたいのである。

 

 現代人の精神内容を覗くならば、その殆どは加美・かみ(自然)の摂理に逆らっているように見える。

もしそうであるとすれば、当然その報いは現代人の我々がいやおう無しに享受せねばなるまい。人生の不幸を喜んで受ける御仁は現代社会に幾たりあるであろうか。

 

 神(かん)ながらは、顕幽一体に仕組まれている。

それは有形無形を問わず微に入り細にわたってできている。

とても人間の智能ではその全体を明かすことは不可能である。

神ながらの摂理の一部分に属しているものだが、姿なき人間(霊界人)と肉体を有する現界人が相互扶助の関連性によって結ばれているということは、私はまるで私の専売特許のように言挙げしてきた。

 

 この両者がほんとに融和交流の実を挙げたとき、初めて現界霊界が平穏に静まりかえるのである。

 

その到来の時機は人間では分からないが加美ははっきり御存知と思う。

 

 

    ・・・・引用終了

 

この文章の後にも霊界人の細かな説明が続きますが、今日はここまででおしまい。

また機会があって、元気があったら紹介します。

 

日聖さんが亡くなられて22年。

世相はますます混濁を極めている。

わたしも、ご存命の間にお会いしたかったな。

と思う。

 

でも、ご本人はね。

死んだ後もどこにも行かずに「大倭にいる」とはっきり生前おっしゃっている。

わたしもいつか行ってみたい。

奈良の大倭神宮へ。

 

日本民族の本当の一番古いご先祖さまは

奇稲田姫命さま、須佐之緒命さま、そしてそのお二人の子供である饒速日命さまである。

そして、歴史において逆賊とされてしまった「ナガスネヒコ」は、個人の名前ではなく饒速日命の子供たちが代々受け継いできた近畿一帯を治めた「大王」の名前であると、日聖さんは繰り返しおっしゃっている。それを明らかにするのが自分の使命であると。

 

日本民族の本当の祖廟(ご先祖さんの場所)は大倭神宮のある場所だと本の中にもあります。伊勢でなく・・・奈良に。

わたしはなぜが、この話が腹にストンと落ちる。

理屈じゃなく、「あ~、そうだったんだな。」としみじみ思う。

大倭の語源はもともと「大親元(おおおやもと)」から来ているという説明もとてもわかりやすい。そして、奈良は、隠されてきたことによって長いこと守られてきたのだろうとも思う。

 

 

歴史が捻じ曲げられてしまったことに対して、霊界の日本民族の真のご先祖様である方たちのうっぷんがたまっているから、「日聖さん」がその真実を明らかにするために生まれた。と、ご本人は何度も語られている。

 

わたしは、それを信じる。

理屈じゃなくフィーリングで信じる(笑)

 

ここに書かれていることを信じても信じなくても個人の自由だ。

だけど、たった一人でも、今日紹介した文が心に響く人がいたらうれしい。

 

祝詞のあとに、「奈母太加天腹」 とわたしは唱えている。

霊界はわたしには見えないけど、エネルギーも見えないけど、日本や世界が「神ながらの法」に基づいて「大らかで和やかな幸せな世の中」になることを願って唱える。

 

最後に。

「ながそねの息吹」の最後に出てくるこの「うた」がわたしは大好きです。

 

 

あさみどり

 

雲の八重垣わけ出でて

 

われ世に生(い)ずるそのときは

 

八百萬代(やおよろずよ)の神(かん)だちが

 

集い来たりて大倭

 

天の沼矛(ぬぼこ)のたつときぞ