図書館で借りたこの本。
とても素晴らしかった。
わたしの、独断と偏見による全日本人必読書シリーズに加えよう(笑)
辰巳芳子さんが、ご自身の人生を振り返りながら、生きることと食べることにつて書かれたエッセイ。
辰巳さんがどんな方なのかよくわからないまま「大物」の雰囲気を感じて本を2冊ほど読んだ。NHKのきょうの料理に出ているのを一度拝見した。
そのたたずまいの「厳しさ」に、テレビ越しでも心がびくっとなった。
正直少し怖かった。
彼女は覚悟を決めたひとだと一目でわかった。
食べることについて、生きることについて、命を懸けて本気で取り組んでいらっしゃる姿勢がビシビシと伝わってきた。全身が「わたしは本気です!!」と言っているような本気を感じた。
ゆるっとだらっと適当なわたしのへなちょこ精神など、一瞬で打ち砕かれてしまうくらいに、圧倒的な存在感。
本を読んで納得。
「わたしには侍の血が入っているの」とおっしゃる。
なるほどなるほど。
本の内容を紹介。
まずは、よだれがたれそうにおいしそうな料理の描写から。
P17~18
大根の葉っぱの一番外側のごわごわして硬いところを低温で素揚げにする。脱水させるように揚げて、からっとしたところで荒く砕いて、大根おろしをさっくり混ぜてお酢と柚子を振って、ちょっとお醤油たらして混ぜくって頂くのよ。これは結構美味しいと私が保証します。
お、おいしそう・・・。
そんでもって、なんつう文章の上手さ!
本書では、辰巳さんのお父上、お母上からそのもっと前のご先祖様まで紹介されていて興味深いのだが、やはり明治に生まれの日本人と、現代の日本人ではもうまったく別の人種だと感じる。なんていうか、腹の据わり方がちがう。生き様が見事。
とくに辰巳家の由緒正しさときたらすごい。安土桃山時代の武将、前田利家の側近15人衆の一人が辰巳家のご先祖様である。さらに辰巳さんの祖父、辰巳一は、明治初期にフランス留学を果たし、やがて近代造船学における日本人最初の先端技術者となった方だという。文明開化の頃の日本人にとっての先端技術というのは、「造船」技術を指したそうだ。諸外国の圧力から自国を守ることのできる、強力な“軍艦”を造る技術。
辰巳一は、コンピューターのない時代に日清戦争で活躍することになる軍艦「松島」「厳島」「橋立」の設計仕様書を1年で書き上げるという人間技とは思えぬ偉業を遂げている。そして、亡くなり方がまた見事だ。
お世話になった人を臨終の場に招いて、グラスと白ワインを家の者に持ってこさせ、そのグラスでワインをふるまって乾杯した。という洒落た演出。並みの人間にはできない。
辰巳さんの父「芳雄」がモットーにしていたという「人生は簡潔に」という不動の信条というのもかっこいい。お父上は、この信条を守り、相手がどんなに偉い人であれ、まったく無名の一介の現場の労働者であれ、つねに同じ正義と平等の精神で接していた。と娘である芳子さんが振り返る。なんて立派なんだ!!
辰巳さんご自身の性格で驚くのは、誰に対しても、どんな場面でも「相手の前でたじろぐ経験が全然ない」し、「絶対に上がらない」とおっしゃっていること。それをご本人は、侍の家の「血の力」だと感じる、と言っている。
この本に書かれいてる中でどうしても紹介したいのは、芳子さんの戦争体験。
結婚式を挙げてから一週間で兵隊に行った旦那様、藤野義太郎さんのお話。
以下引用 P71~74
もう昭和19年の6月、敗色濃厚なときだからちゃんとした背嚢さえもなく、ネットの袋みたいなものを背負って、剣もないから牛蒡みたいな木の棒携げて、ゲートルは巻いてたけど履いていたのは地下足袋よ、正規の軍靴ではなく。
みんな見るからにしおしおとしてたのを私は覚えてる。父がシナ事変で出征したときには、兵隊さんはみんな上にのけぞるくらいの元気だったのね。まわりも旗を立てたり、万才万才したりして。でも、この日はだれもがしおしおとしていた。あんな隊列なんて、それまで見たこともない。この戦争は違うんだって思った。
空襲が始まったその頃、藤野義太郎は三隻の輸送船の一つに乗り組んでフィリピンに向かった。行く途中に二隻沈んだ。一隻だけたどり着いて、不思議なことに手紙が届いたんですよ。フィリピンだって書いてあった。よく葉書が届いたと思う。
一隻に鮨詰めで3800人の部隊が一か月ぐらいかかってフィリピンに着いた。島から島へ移動する途中で空襲に遭った。本人は学生時代に射撃をやっていたの。それで、ただの鉄砲じゃなくて機関銃をやれといわれていた。甲板に据え付けられた機関銃のところへ行って敵の飛行機を撃とうとした瞬間、頭を銃撃されて、遺体も痒いもなくパッと死んだの。
その空襲で助かった人たちはなんとか船から陸地へと揚がったけれど、結局ほとんど全員餓死した。3800人のうち8人だけ生きて帰ってきた。その一人が報告に来てくれて、それを聞いたお舅さんから私は話を聞いた。
こういう事実はいまだに明らかにされていないけれども、日本兵の実に75%は戦死というより餓死だった。
私の主人が行くときには、すでに制海権もまったくなかった。海も空も守りようがない中を、まともな装備もないまま行って、まるでさらし者よね。その挙句に餓死ですよ。これが「英霊」の事実です。
まさに拙劣というしかない作戦ですね。
で、私がこれを是非書いていただきたいと思っているのは、たとえ現政府がそういう拙劣きわまる作戦で兵士の75%を飢え死にさせたのじゃなくても、同じ日本の政府として責任を受け継いでいる以上は、いつの段階かでその家族に詫びなければならない、ということです。
飢え死にで、息子を失った親、飢え死にで夫を失った妻、そういうことで父を亡くして苦労の道を強いられた子供たち・・・そういう日本の国民のために、日本政府はいつか一度、はっきり謝らなければならない。
ところが、敗戦後これだけの年月が経つのに、いまだかつてきちんと謝った政治家は一人もいない。そんなことだから、こういう情けない政治がずっと続いているんだと思う。
その昔ね、殿様が一番に最大の仕事としていたのは「領民をいかに食べさせるか」ということだったんでしょう?それがいま、日本の政治家に「国民の食をどのように守るか」ということを真剣に考えている人がいるだろうか。だれもいない。だから日本の食糧自給率は40%にまで下がってしまって、それが全然上がる気配がない。
P78
戦死というものはあらゆる死の中でもっとも不自然な死
引用終了
びっくりするくらいに長くなってしまったので次に続く・・・