4人目の方。
この人について語りたくて頑張って一人ひとり感想書いてきたのよ。
この人は修験道の僧侶としてかなり上の方の肩書をお持ちの方。
「金峯山修験本宗宗務総長」という仰々しい肩書を持つ正当な宗教者。
もちろんこの肩書は当時のもので、現在はその地位を退いておられる。
わたしね、大学の時に鎮守の森について研究してたから、熊野や修験道にはかなり興味津々。修験道ってわくわくする。実際に道を極められた方は、相手の悪いところがぼんやり見える。という話も聞いたことがある。
この方も3人目の方と同じで、「自分には霊能力はない!」ときっぱりおっしゃられています。
修験道は、日本古来の山岳信仰と外来の仏教や陰陽道がうまく結びついて、今日まで残ってきた。と考えられている。この方は、修験道を「日本人的仏教のひとつの典型として捉えることができる」とおっしゃっておられる。そこには、日本の宗教的なものの根幹がある、と。
めんどくさいからもう名前で呼んじゃおう。
この田中さんは、難しい言葉を使わず非常にわかりやすくフレンドリーな調子でインタビューに応じておられる。
親近感がぐっと湧くのが「ほんとは山に入る修行なんてしたくないけど、修行だから仕方なしに行ってるんだ」ってとこ(笑)
実際に修行されてる方の生の言葉ってほんとうに力がある。
山に行っただけでは力はもらえなくて、心身脱落するくらいにくたくたになって「我」がとれたときに初めて山自体がもつ「場の力」をいただけるのですって。おもしろ~い!
それともう一つすっごくおもしろかったのが、山で修行した後には必ず「精進落とし」という酒を飲んでどんちゃん騒ぎをするんだって。
なぜかというと、穢れというのは日常生活の中でバランスの崩れたこと、をいうから、
不浄の穢れのほかに「聖なる穢れ」というのもあって、急に俗世界に帰るとその中でのバランスを崩してしまい「聖なる穢れ」を持ち込むから、そうしないよう精進落としを行うんだそうな。
斬新だ!
そして、穢れを落としても、山にいただいた力は人間の中に残るのだそう。
でもその力があるってことと、素晴らしい人間であるかどうかは全く別の問題だというくだりも現実味があってイイ!
田中氏はくだけた感じでお話されているが「神仏はいると思うか、本当に信じているか」との問いに対してきっぱりと「いる。信じている」と答えられている。
今の日本が幸せとは言えない国になったのは、戦前に村落共同体や家制度の中で培われた来た神仏習合の意識が戦後壊されたことによって、人々が神と仏から遠ざけられ、物だけが与えられる社会になったことに起因している。
という内容のことを述べられているのだが、これとまったく同じことを今日読み終えた「桜のいのち 庭のこころ」の著者である佐野藤右衛門氏がおっしゃっておられた。
人間は、帰属するものを持たないとダメになっちゃうって。
あとね、今も日本各地に残る「女人禁制」の聖地に関するお二人の議論も素晴らしい。
わたしも女人禁制は、「女性差別」とか「ジェンダーフリー」とかとは完全に分けて考えるべきだと思うし、守られていくべきだと思う。
日本がこのままアメリカになれるのならそれでもいいけれども、なれないのならどこかへ戻らなくてはならない。日本人が戦後壊されたアイデンティティーを創造していくには神仏分離以前の宗教観を取り戻すべきだ。という田中氏の主張に胸が熱くなる。
本当にそうだと思う。日本の宗教というのは宗教以前の精神文化であり、もともと古来の神道は宗教ではなく道徳だと、様々な本でも書かれている。
学校で、それを教えるべきだよ。
自国の文化について語れるような人間を作ることが、経済発展の止まったこれからの日本を観光地化させようとする政府の狙いとも合致するのではなかろうか。
さて、5人目の方。
彼はなんと田中さんの弟さんです。
この方は、山伏たちを直接指導する立場におられる住職さん。
加門氏曰く、この二人にお話を聞くことは修験道の理論と実践を教えていただけるということ。らしい。
そして彼もまた、兄の田中氏と同じように自分は霊能者ではないと断言している。
でも、山伏の本山の一つとしてそこに集う「見える、わかる」という人たちにもいっぱい接してきたから、本物じゃないひとはわかる、と言っている。
興味深いのが、加門氏に「本物と精神を病んでる人との線引きはどこにあるか」と問われて、「難しいですね・・・」と言葉を濁した後に最終的には「自分を律していくことができるかどうか」ではないか、と述べておられるところ。
わたしは、あ~、この人本物だなぁ。と思った。
本物でないと思うのは、人間の営みを外れることをいっぱい言ってくる人。という表現も面白い。要は、本物はちゃんと現実世界にも地に足がついていて、周りが見えている。ってことなんでしょうね。
「自分が神様になったらダメですよ」という教えには、神道とかなり通じるものがある。神主はあくまで神様と一般の人との仲執り持ちであり、願いがかなえられたとしてもそれは神主が神様に伝えた一般の人の願いを神様がかなえてくださったのであって、神主の力ではない。という話ととても似ている。
現実感覚にもとても優れたこの弟さんはやはり、お兄ちゃんと同じく「山歩きが嫌い」と言っている(笑)
虫は一杯いるし、暑いし、臭いし、嫌なんです。
だって。かわいいよね。
それでもやっぱり、修行で入る山は、同じ山でもふつうにプライベートで歩く山とはまったく別のものだという。そこには必ず神様、仏様がいる、と断言されています。
奥駆修行に行っただけで悩みは解決しないけど、その場所で「自分との対話」をすることで、「生かされている自分に気づき、悩みをもった自分そのものを受け入れられる心境になる」人が多いという。
修行僧を指導する立場にあるこの方が、「歩いてたって無にはなれませんよ、仏さんじゃあるまいし!!」とぶっちゃけてくれている箇所は、わたしたち凡人の心をとても勇気づけてくれる。
大切なのは、我欲まみれの自分を見捨てずに、「自分を観ながら歩いて行く」ことだ、という教えはとてもあたたかな慈悲に満ちているように思う。
五條氏の述べておられる
「仏さんの気持ちはみんな持っている。それを日常のなかでいかに思い出すかが大事。」という言葉は神道好きの私の心にもびんびん伝わってくる。
そうなの!!日本に古来から伝わる宗教のよさは「山川草木悉皆成仏」といって、山にも草にももちろん人間にも生き物にはみんな仏様の心が宿っている、という教えなんだよ。
あと、九字切りの話が面白かったな。
「自分の意識と想念の世界で切る!」んだってさ。
インタビューの最後に「山に入って修行することの意味」を問われた五條氏の答えがぐっときた。
山というのは「仏さん」であり、その中に入らせていただくことによって大自然と一体になって修行する。一体となるというのは、お山というものがこの自分のなかにもある、自分のなかに仏がある、と実感することです。
日本において宗教的な世界がどうなっていってほしいか、という問いに対し、五條氏は以下のように答えておられる。
P165
昔の人は、別に出家や修行をしなくても、どこにでも自分を超えたものがあるということを知っていて、そうしたものに出会ったときには、みんな素直に手を合わせて、ありがとうという言葉がすっと出てくる。自然を超えたものに対する畏怖する心というものを、もういっぺん気づいて欲しいですね。われわれ修行者だけでなく、日本人全員がそうなってもらいたい。それを目指したいし、そうなったら嬉しいですね。
五條氏のメッセージはとても簡潔で、そして深い。
このあとにも沖縄のユタさんや神主さんや、会社経営者の女性など続々と登場しておもしろいお話が続くのだが、わたしはもう5人目の五條氏までで完全に言いたいことも感想も書ききって満足したので、これにて終了。
続きが気になる人は買うなり、図書館で借りるなりして読みましょう(笑)