この本の感想文。プラス、神道についてのわたしの熱い思いなので、
興味のない方はスルーしてくださいね。
キリスト生誕の日にあえて神道を語るっていう聖なる夜。
でもこの本読んだのは天皇誕生日だから、天皇誕生日の過ごし方としてはふさわしいよね。神道や天皇や国歌は、戦前軍によって都合のよい解釈に捻じ曲げられ利用されたために、未だになんだか洗脳されそうな禍々しいもの。というイメージがつきまといますね。
でもね、本当の古来から続く神道は、そんなものじゃないんです。
もっと素朴で、懐が深くて、愛に満ちた、生活に密着した祈りです。
日本に古来から伝わる本来の神道は「宗教」ではありません。
要するに、大昔から続く日本人の「生き方」を表してるのが神道ともいえる。
「万物に神が宿る」とか「神様やご先祖様に感謝する」
という考え方が代表的です。
海にも山にも石にも、トイレにも、かまどにも神様がいる。
「なにかはわからないけれど、そこに確かになにかがいらっしゃる」という感覚。
たぶんこの感覚は、日本人ならみんなにあると思います。
わたしは大学での研究テーマが「日本人の自然観と鎮守の森」だったので、
神道に対して並々ならぬ熱い思いがあるのですが、なにがいいって
「自然が神様」ってのがいい。
だって、そこには絶対的なものは何もない。
金を積めば救ってくれる、っていう現世利益的な生臭さが一切ないの。
すごく好きだと思ったのは、神道は別に立派な建物なんかなくてもいいってこと。
元からあったのは神様が降りてくるときの依代となる木であり磐なのです。
だから、「木のないお寺はあっても、木のない神社はなんか想像できないでしょ」みたいなことを書いてある本を読んだときに「すごくいい~!」と思った。
神道が何たるかをもっとも端的に表しているのが
「祓い給ひ、清め給へ」
だという言葉だと、著者はおっしゃっています。
ここに極意があると。
神さまはなんでもかんでも望みをかなえてくれるわけじゃなくて、
神さまに祈りを通じさせるためにはとにかく身も心も清めなさいよ。
清浄心で神に向かうことが大原則だよ。
神に向かう姿勢をまず自分が調えることが重要で、それができなきゃどんなに金積んだって祈りは神に通じないよ。というのが神道の教え。
とにかく神道では、「罪や穢れを祓う」ことが大切。
でもここで言う「穢れ」は、単に汚いってこととは違うのです。
「気」が「枯れる」と書いて「気枯れ」というのが元の意味だとも言われます。
神さまからいただいたすばらしいエネルギーを枯らさないよう清く明るく生きてね ♪
というのが神様からのメッセージなんだって。
ま、くよくよするな!ってことですね。
くよくよしてばかりのわたしこそ最も修行が必要だ!!
著者である田中さんが「祈りは必ず通じると思っています。」と言い切っておられるところがとても力強くて素敵だと思いました。
でも難しいのは必ずしも祈りが通じるってことが、私たちにとっての「好都合」とは
違う、ってこと。
キリスト教の「原罪」って考え方がわたしはどうも好きになれない。
あと、「絶対的な正しい教祖」ってやつが本当に苦手。
でも日本の神々はもっとおおらかで人間臭くて、たまには怒ってひどいことしたり、
天の岩戸に閉じこもっちゃったりもする。
そして、わたしたちはみんな神様の「分け御霊」なんだという考え方がとてもいい。
そこには「絶対的な者」と「それ以外」といった序列がないでしょ??
神さまも人間も自然も全部がひとつながりなの。
わたしたち日本人は、こんなに素晴らしい文化を持った国に生まれたことを
もっともっと誇っていいと思う。
「罪穢れを祓う」ことで、神様はわたしたち一人ひとりのところに降りてきて守ってくれる。朝起きて顔を洗うのも、夜お風呂に入るのも結局は「禊(みそぎ」という考え方から来ている。こんな風に、日常の中にも神道は今もちゃんと根付いてます。
わたしは、日本の神様のあり方がとても好き。
真の意味で高貴な存在は、「見えない」のが当たり前。
だから感じるんだ。「すがすがしい」とか「気持ちいい」とか。
父が亡くなったときにね、神様なんていないと思った。
だけど、今はまたいると思ってる。
最悪の状況の中で助けてくれる何かは必ずある気がしています。
それに気づけるかどうかだと思う。
それを神様のおかげだとと思えた方が、結果自分が救われるんじゃないか、というのが私の見解です。
さて、寝ます。